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ロマン塩尻第116稿 塩尻市神社仏閣ぶらりシリーズ 46

観音堂(かんのんどう)
本尊 秘水観音または陽見ず観音(伝慈覚大師作)
   曹洞宗興龍寺所属
     長野県塩尻市洗馬下小曽部長崎
 本堂はややいたんでいるが、間口4間・奥行4.5間、正面には凝った彫刻が施されている立派な建物です。
屋根は分厚い茅葺で、現在その上にトタンが葺かれている。明治12年の「寺院明細帳」によると、間口6間・奥行4間の庫裡もあったし、
鐘楼もあり、よい梵鐘が備えられていたが、太平洋戦争で供出して今はありません。
 境内地も広く、境内入り口には文化14(1817)年8月建立の約3mの徳本念仏碑、境内には貞享5(1688)年4月建立の念仏供養塔や、享保《1716~36》年間の光明真言・念仏講・観音講・庚申講の供養塔、観音石碑などが多く、堂内にはヒミズ観音が祀られ「雨乞い観音」として少なくとも江戸時代初期から広範囲の信仰圏を持ち、栄えていたことがわかります。 祈祷札・寄附札が数多く打ち付けられている(年号が明らかなものに明治が多い)本堂内には、明治26年8月興龍寺が出した祈祷札等が多く掲げられ、当時は盛んに雨乞いが行われていたことがわかります。 この観音堂は興龍寺の境外仏堂とされているが、実際の管理運営はオオナカとしての小曽部地区が強くかかわっていて、境内には平成館という区の公民館も建てられています。 本堂の戸は開け放たれていて、かつては畳敷きになっていたので子供達はよくここで遊んだといわれています。
 又、雨乞いに関する明治6年の「観音8月12日2夜3日雨乞い諸事控」という文書も残されていて、村を挙げての行事でした。 雨乞いは昭和時代前期にはまだ行われていたようで、古老によるとその方法は本尊のヒミズ観音を外に出して照り続ける太陽に当てて祈ることと、更には小曽部川の最上流にある新池に行き(新池の近くに瀧の大神が祀られている)平素は立ち入りが禁じられている、池に入って騒ぐ事だったという。古老によると、笹賀・小俣方面からも神官を同道して雨乞いに来ていたといわれています。
観音堂には長らく僧侶が住んでいました。 江戸時代後期には、多くの子供に読み書きを教える僧侶がいて、かつては庵主さんと呼ばれる男の僧侶がいたが亡くなり、その妻が尼僧になってその跡を継いだが、その尼僧も、昭和8年5月に69歳で亡くなり、その後は息子の小笠原禅明(昭和31年5月死去)が仕事を続けていました。
現在も多くの人々から観音堂のアンジュサン若しくはゼンミョウサンとして記憶されているのはこの人です。 これら歴代の庵主は観音堂境内の小曽部区の集会所に住み、お堂の管理に当たるとともに、小曽部内の葬式には興龍寺住職に伴われて読経に出掛けていました。  また、1月4日5日の年頭の檀家回りにも伴われて行きました。 法事の時は住職に頼むこともなかろうということで庵主さんに経をあげてもらう人も多く、毎月の決まった御慈祭の日には大日堂か観音堂のどちらかの庵主が檀家を訪れ経をあげたが、養蚕で家が取り込んでいる時には休んでもらう時もありました。 そんな時は夕飯などを御馳走するだけで、布施は出さずそのかわり暮れや盆前に米を三升とか五升とか持参したそうです。 祭りは4月17日18日、17日朝に近くの伊沢姓3軒と北林家とが代々観音堂の掃除をし、提灯・幟・灯篭などの飾りつけをしています。 昼には興龍寺住職、小曽部檀徒総代8名、自治会の役員、それに先の4軒の人が加わって読経供養して、簡単な飲食をして祭りは終わります。 現代は実に簡単ですが、かつては参詣者も多く、芝居も出て、客祭りといって親戚なども招き賑やかに祭りを楽しんだといわれています。 また、新しい馬を飼ったりすると、馬を連れて観音堂に行き祈る人もあったそうです。
地図はこちら +印付近
振興バス路線図・時刻表 洗馬線 長崎下車 徒歩約3分
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