塩尻市 観光協会 時めぐり

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郷原宿

慶長19年に開かれたこの宿場は、区画割が整然となされており、また水に事欠いた地であったことから、用水路が発達した。古井戸とともに郷原宿の町並みは塩尻史跡に指定されている。

駐車場

専用駐車場はありません。

その他

宿場内は通行にご注意ください。

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ロマン塩尻第71稿 塩尻市の街道と宿場シリーズ(郷原宿)

慶長19(1614)年、松本城主・小笠原秀政が中山道洗馬宿と北国街道を結ぶため、善光寺街道(北国脇往還)を整備したときにできた宿の一つです。
 善光寺街道(北国脇往還)が洗馬宿から分かれた最初の宿で、洗馬宿へ1里半、松本市村井宿へ同じく1里半の路程です。
 すでに存在していた集落が宿になったのではなく、郷原の元の集落は奈良井川の東岸の上野地籍にあったが、宿駅の整備に伴い、同じ川の西岸の住戸地籍にあった堅石集落とともに、元和5(1619)年ころ現在の場所に移して宿づくりがされました。
 幕末には、家数73軒、旅籠屋は10数軒で、問屋は上・下問屋が2軒で本陣・脇本陣はありませんでした。
 屋敷割りがよく行われ、家ごとの間口は普通の宿は3~4間を1軒分としているが、文化4(1807)年と安政5(1858)年の大火で焼失後再建された家々の間口は5~6間と広く、奥行きも街道の両側それぞれ30~40間で、更にその奥が屋敷の倍以上も広い「うら」と呼ばれる耕地となっています。
 建物も、一般の宿場は街道に面して平入りが多いが、郷原宿は妻入りの本棟造りで、雀おどしがついた切り妻が街道に面しているのが特徴です。
 また、街道と家の間に前庭があり、樹木が植えられて美しい街並みとなっており,各家には屋号が表示されています。
 宿全体は、欠水性の桔梗ケ原台地にあったために地下水が低く、用水に事欠き、宿ができた当時は10~15mの深井度を,郷福寺・御茶屋付近・下問屋付近の3か所に堀り、共同で管理・使用してきました。
 宿北には、明治13(1880)年に明治天皇御巡幸のとき御小休所となった郷福寺、また、北には塩尻にゆかりのある歌人の足跡をたどる資料を提示した塩尻短歌館があります。

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地域振興バス時刻表はこちら  広丘駅循環線 郷原下・短歌館
 入口下車   料金一律100円(子供同額) バス車内には
  両替機 が無いので、釣銭の無いようにお願いします。

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ロマン塩尻第66稿 塩尻市の街道と宿場シリーズ (贄川宿)

贄川宿の成立したのは16世紀中頃といわれています。
 中山道は慶長7(1602)年ころから整備がはじまり、当初は木曽谷の森林資源利用や伊那の米輸送の便をはかるため、下諏訪から小野峠を越えて新設の小野宿に出て、牛首峠から贄川宿への道が中山道でした。
 それがわずか10年余の短命に終わり、慶長19年から塩尻・洗馬・本山の3宿と結ぶ道が中山道になりました。
 本山宿から南に向かうと、中山道に沿いにある「桜沢」に「お境橋」と呼ばれる橋があり、ここが松本藩と尾張藩の境になっており、「是より南木曽路」の碑を抜けると木曽路が始ります。贄川宿は木曽11宿の入口で、国道19号線から入るには跨線橋(メロディー橋と呼ぶ)を渡ります。
 隣宿の本山宿へ2里、奈良井宿へ1里31町で、本陣・脇本陣を境に江戸方を下町,京方を上町と呼んでいました。天保14(1843)年における宿の規模は戸数124軒で、本陣1、脇本陣1、問屋2、旅籠屋25となっています。
 宿の北端に贄川関所があり、女改めや中山道を通る木材の監視・統制の役割をし、明治2(1869)年廃止になりましたが、昭和51年に復元し地下部分は木曽考古館になっています。
 数度の火災で家並みは失われましたが、上町にわずかの建物が残っています。
 なお、宿にある深沢家は屋号を「加納屋」と称し、嘉永7(1854)年の建築で、贄川を代表する商家となっており国重要文化財に指定されています。
 史跡などでは、本殿が市の有形文化財で社叢が市の天然記念物に指定されている麻衣廼神社、山門が楼門で市の有形文化財に指定されている観音寺、トチノキの大木で県内第一といわれる樹齢600年以上で県の天然記念物に指定されている「贄川のトチノキ」などがあります。
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地域振興バス時刻表はこちら  楢川線 贄川関所下車
 料金 一律100円(子供同額) 車内には両替機がないので
         釣銭の無いようにお願いします

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ロマン塩尻 第53稿 塩尻市の街道と宿場シリーズ (洗馬宿)

洗馬宿
 浮世絵師・安藤広重の木曽街道「中山道六十九次」の中で、唯一無二の佳作といわれる「洗馬」を描いた絵図は、洗馬宿にある「邂逅の清水」(あふたのしみず)から奈良井川を見た景色を元に描かれたといわれます。
 慶長18(1613)年に、下諏訪宿から小野宿・牛首峠経由で贄川宿に至る旧中山道が廃止された翌年、塩尻峠経由の路線が新たに中山道として設定された際、塩尻宿や本山宿と同じ頃新設された宿で、当時の洗馬は上の段を大怒田、下の段を新町と呼び、これらの村や近郷から人々を集めて宿場造りがされました。
その際、宿の南には新福寺(明治4年廃寺)と上神明宮、宿北に下神明宮が置かれました。 
 宿の北方は中山道と北国脇往還(善光寺街道)の「別去れ」で道が左右に分かれ、「右中山道 左北国脇往還 善光寺街道」の道標が建っています。中山道を進むと桔梗ケ原を経由し塩尻宿へ1里30町、本山宿へ30町、善光寺街道を進むと郷原宿へ1里半の道のりで、江戸板橋宿から31番目の宿です。
 上町・中町・下町(伊勢町)に分かれ、平均3間間口を1軒役として屋敷割されました。
天保14(1843)年には家数163軒、本陣、脇本陣、問屋場があり、旅籠家は29軒でした。新福寺の入口には高札場があり、本陣の南側には幕府の貫目改所が置かれていました。中山道では板橋宿、追分宿と洗馬宿の3箇所に貫目改所が置かれ、継ぎ立て荷物の目方を検査し、規定の重量を越えた荷物に割増賃金を徴収しました。
しかし、昭和7(1932)年の大火で宿の大部分が焼失してしまいました。
史跡としては、細川幽斎にまつわる伝説の肱懸松(ひじかけまつ)、中山道と善光寺街道の分岐点の分去れ道標、木曽義仲伝説の邂逅の清水(あふたのしみず)願い事をかなえてくれるという言成地蔵尊などの史跡があります。

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振興バス時刻表はこちら  宗賀線 洗馬駅口下車
 運賃一律100円(子供同額) 車内には両替機がないので、
      釣銭のないようにご用意ください。

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ロマン塩尻 第50稿 塩尻市の街道と宿場シリーズ (塩尻宿)

はじめに
 塩尻市内には、中山道信濃26宿(馬篭宿含む)のうち塩尻宿・洗馬宿・本山宿・贄川宿・奈良井宿と5つの宿場があります。また、善光寺街道(北国脇往還)の郷原宿、三州街道の小野宿を含めて7つの宿場町があります。 
 これらの宿場は、かつて参勤交代の大名行列や善光寺参り、伊勢詣での旅人が行き交い賑わったことでしょう。
 これから7つの宿場やここを通る街道を「街道と宿場」をシリーズとして紹介します。
①塩尻宿 
 塩尻宿は、江戸から58里余 起点の板橋宿から数えて30番目の宿で、下諏訪宿へ2里33町、洗馬宿へ1里30町の道のりです。
 下諏訪宿から三沢峠・小野宿・牛首峠を越え贄川宿に至る旧中山道が、慶長18(1613)年に廃止され、慶長19(1614)年から新たに下諏訪宿から塩尻峠を越えて塩尻宿・洗馬宿・本山宿を経て木曽に向かう新しい中山道が造られました。
 現在の塩尻宿は既成集落ではなく、当時五千石街道沿いにあった塩尻宿(古町付近)や近郷から人々を移して宿場づくりがされました。
 宿場づくりに当たって、古町にあった長福寺(現在の永福寺)を移転し、明神平の阿礼神社を遷座しています。
 宿の中央南側には上問屋・本陣・脇本陣・陣屋、北側には下問屋・問屋場があり、問屋場には高札場が設けられ、宿の東端には寛永年間から松本藩の口留番所が設置されていました。
 また、脇本陣の西側には享保10(1725)年から18年間塩尻陣屋が置かれ、信濃国5万3千石を支配しました。
宿の区画は平均3~4間口が基準となっており、天保14(1843)年には家数166軒、うち旅籠は街道の分岐点で塩尻峠を控えているため75軒と信州26宿のうち最大であり、また、本陣川上家の建坪は367坪で中山道随一の規模でした。
文政11(1828)年と明治15(1882)年の大火で宿の大部分を焼失しましたが、宿内には、国重要文化財の小野家(※1)や堀内家(※2)があり、近隣には塩尻峠茶屋本陣(※3)、東山一里塚(※4)、首塚・胴塚(※5)などがあります。

※ 1 塩尻陣屋跡の正面にあり、屋号「いてふや」嘉永3年頃の建築
※ 2 江戸時代名主だった家で、18世紀後半の建築で本棟造りの民家
※ 3 大名休憩の茶屋本陣 主屋は寛政年間の建築で和宮通行の際の
休憩所となった
※ 4 東山一里塚 塩尻峠下に1基残る。北の山は「いの字山」
※ 5 柿沢集落にあり、天文17(1548)年武田軍と小笠原長時の塩尻峠の
激戦で戦死者を葬った塚

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みどり湖・東山線 塩尻仲町下車
 料金一律100円(子供同額) 車内には両替機がないので、
 釣銭の無いように用意ください。

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郷原宿、400年前にタイムスリップ

ときは1614年、徳川家康と豊臣秀頼・淀殿との大阪冬の陣、夏の陣の決戦のころ、ここ信州の真ん中桔梗ヶ原の原野に善光寺街道が敷かれ、小笠原秀政公が郷原宿伝馬定書を交付し、宿場機能を持たせた郷原宿ができようとしていた。
当時堅石の奈良井川沿いの「上野」地籍で居住していた人々は、移転を余儀なくされたのであった。その時の困惑した様子が、集落の長への陳情古文書からうかがえる。現代口語訳で400年前にタイムスリップしてみよう。
 
去年(元和元年)松本藩の巡検のお役人が郷原宿をお通りになった時、奈良井川が大水で氾濫していました。その為、郷原宿から本洗馬宿へ向かう道筋ののし上げ橋も危険で荷物を運ぶ人馬などひとりもなく、その為ご巡検のお役人の川崎善十様、堀午之丞様は郷原宿に五日間も逗留されることになりました。その際、ご巡検のお役人の申されるには、『郷原宿から洗馬宿の間は大変な難所で、荷物の継送りも思うに任せず、またしても急なご用でこの道を通行する時、今回のような奈良井川の氾濫があれば早駆けしようとしてもできない』とのことでした。
このたび桔梗ヶ原下通り新道(善光寺街道)開設をお殿様が仰せ出されましてから、伝馬役、人足役など新道の方へ出張してお勤めせねばならず、甚だ難儀なことでした。
今回、郷原の惣百姓全員の意見で、新道の善光寺街道の方へ家を移転したいと希望いたします。どうか村役人の皆様、松本藩へお取次ぎくださってお殿様にこのことのご援助を頂けますようお願い申し上げてください。私どもの希望が叶えられ、善光寺街道の方へ家の移転ができましたら、今後は私どもも勝手なことを申すまいと存じます。右の願いお聞き届けくださいましたらならば、末々に至るまで、如何様な事を仰せつけられましても、私ども惣百姓一同勝手なことを申さず相勤めるつもりでございます。
以上のことお約束申し上げます。
元和二丙辰年(1616年) 八月二十三日

郷原の惣百姓の人々が移転を完了したのは1619年頃と思われます。2014年は、郷原宿が開設されて400年になります。同時期に塩尻経由の新中山道もでき、本山宿、洗馬宿、塩尻宿も開設400年を迎えます。この記念すべき400年を一緒に祝おうという機運が高まっています。

郷原宿を巡る旅人の皆さんへ
マップ、郷原宿検定が掲載された案内書(3種類)は、郷原郵便局、郷福寺等にあります。
記念スタンプも押印できます。
通行手形は、ナカハラオートサービス(0263-51-6807 松本歯科大学野球場横)にて500円で購入できます。
連絡先:会長 臼井(0263-52-2085)、 事務局 小林(0263-52-0732)

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